タイトル通りなのですが先日、行政処分をもらいまして免許が1年の欠格になりました。
もう、群馬の魅力を伝えるために自家用車を使えないんだなと思うと涙が出ます。なのでバスを使います。
バスの方が気合い入っててワロタ
わろてる場合と違うんぞ!
てんかんで免許が欠格になる僅かな人に伝えておきたいのですが行政処分での欠格期間は1年、
ただし症状の回復が見られれば最短で2年、そうでなければつまり、公安がその気になれば免許は10年20年後ということも可能だろう・・・ということ・・・・!
しかも今日から3年、欠格期間があるので実質2年、なんならてんかんで欠格の人はもはや1年の猶予期間内に更新が出来なかった場合はもう一度免許を取り直させるとのこと。
病気なんだから仕方ないよねとか絶対に無免許運転しないでねと安全講話を1時間してる割にシンプルにペナルティデカすぎて死ぬ。社会的に死ぬ。都内なら良いけど田舎で車を持っていないというヤバさ分かってるだろ。動けないとかそういう面以外で素性から疑われるレベル。
免許を取るの遅くて周りに変なやつ扱いされたんだから間違いない。教習所でも何で今更取るんですかって言われました。27くらいで。
話戻って今日の出来事。安全講話であるお爺ちゃんが無免許運転したところ3世代地元からも会社からもいじめにあって悲惨な目にあったのでダメ絶対と言っていました。さすがに作り話だろと思いながら、それを考えながら無免許運転ではなくて、社会の構造に問題があるとは思わないのかねと笑う嫌な客と成り下がる。精神テンションはマジ貧民街。
まぁどちらにせよ、無免許運転するつもりがないから早く終わってくれと願いながらの1時間だったのですがいざ終わって免許が今ないんだなと思うと何か喪失感があるんですね。
車には正直興味はないですし、運転も下手です。隣に乗せる女性もいませんし、友だちなんかには基本運転してもらいます。
それでも何かがない感じ。
我々は成長する過程でたまに忘れることはあっても技術を剥奪される経験はしません。自分が出来るようになったことは自分の糧となり自信となり体を、心を作っていくのでしょう。
しかし今回のように免許が欠格になるというのはどうでしょうか。自分の意思ではないし、自分の意思であったとしても出来なくなることへの葛藤は耐えがたいものだと思います。
一昨年あたりから高齢者の免許返納について話題にあがることがあります。技術は衰えて危なくなっていくのは本人も重々承知だとは思います。しかし出来ないという烙印、正確には今までが許可だったにせよ、それが押されることが何よりもツラい事実なのではないかなと感じました。
また、介護の現場でも同じ事が言えると思います。排泄は成長の早い段階で獲得し、いわゆる肛門期が自律に重要みたいなことをフロイト先生が言っていたような気がします。まぁそんな排泄ですが立って出来ない、おむつが必要、漏らしたことを気づかないなど自我がある分直面しないとならない現実が待ち構えているのが老年期です。
車で自由に動けない、はたまた自由に用を足せないと別のことのように感じますが自律性を損なっているという点で同じなのかもしれません。
私くらいの睡眠学習のプロになると高校の現代社会の真に重要であろうエッセンスをピンポイントで記憶しているのですが
古代ギリシャの哲学者ソクラテスは善く生きるということを考えていたそうです。ピンポイントでしか覚えてないので単語の意味はよく分かんないですけどこういった転機なのでこの善く生きるという何か刺さるワードを頭の隅に置いて生活してみようかなと思います。
何を失ってもその先でより善い人生を送りたいものです。
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